@article{oai:tokoha-u.repo.nii.ac.jp:00001316, author = {上坂, 保仁}, issue = {1}, journal = {常葉大学経営学部紀要, Bulletin of Faculty of Business Administration Tokoha University}, month = {Feb}, note = {本論文は、「戦後」教育体制における「大学」の史的展開にあって、「大学教員」をめぐる根源的問題性と課題に真摯に向き合い続けたと約言可能な「作家」高橋和巳を俎上に載せる。高橋の精神的態度は、常に自己省察、内省に由来し、あるいは伴奏され、ある種の「自己批判」と向き合い続けることの内にあったといえる。「知識人」とは何か、民衆とは何か、市井とは何か、人間とは何か。高橋がそれらを問い究明していくためには、頻々に自らを切り刻まねばならなかった。自身が寸分たりとも希わない「知識人」という階層的意識に纏わる桎梏。なかでも、高橋によって示された「大学教員」のレゾン・デートルへの照射に連なる「知識人」論の諸相からは、実存的苦悩の連続と連鎖を生起させる「葛藤」の思想が指摘されてくる。それはあたかも、不易流行を越境する次元で、かれにみる純粋性の希求が浮かび上がる。ゼロ年代を経た現在、「大学教員」をめぐる情況とは、人間(存在)の根源的問題を照らし抉るそれらをめぐって、はたして何らかの解決を経た後の情況なのであろうか。端的には特に、つまるところ「バブル経済」なる資本主義的情況と連動するいわば「’80 年代的大学」(あるいはおよそ「’80 年代的大学生」的「感覚」と呼んでもいいもの)の延長線上にある思想潮流に象徴的であろうし、そのことは「戦後」教育体制における「大学」の史的経験を省みることすらない、それら潮流を内包した当の「大学教員」自体に第一の問題が存するのではあるまいか。それら問題意識をめぐる解決への希望を含めながら、いま一度本稿において、「大学教員」のレゾン・デートル「再考」のために、高橋の提示した幾多の問いから浮かび上がる思想的特徴と現代的意義を論じていく。}, pages = {67--76}, title = {高橋和巳「自己批判」概念にみる「葛藤」の思想 : 「大学教員」のレゾン・デートル「再考」を射程に}, volume = {1}, year = {2014}, yomi = {ウエサカ, ヤスヒト} }